2013-09-30

11月22-24日、京都・法然院での展示会・報告会のご案内

 恒例の、京都の法然院での展示会・報告会のスケジュールが決まりました。
 今年は11月22日(金)から24日(日)の3日間です。現地報告会は、24日(日)の午後1時からを予定しています。

 森本喜久男・報告会「シエムリアップ 現地からの報告2013」

【とき】
11月22日(金)から24日(日)まで(展示と販売)
10時~16時(ただし、初日の22日は12時から)
※現地報告会は、24日(日)の午後1時より。

【ところ】
法然院 京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町(TEL:075-771-2420)
(京都駅から市バス5番 錦林車庫行 浄土寺下車 徒歩10分)

※この時期の京都は、紅葉の最盛期でもあり、市内の道路事情はたいへん混雑しております。十分な余裕をもって、お越しください。


より大きな地図で 法然院(入口) を表示


2013-09-23

バンテアイミエンチェイ州プノムスロックを訪ねる

 2013年の夏、バンテアイミエンチェイ州プノムスロックへと向かった。今日は、特別にIKTTのスタッフが同行する。
 シエムリアップを出発し、国道6号線を西へ。空港への分岐を右に見送り、直進する。四車線道路の状態はすこぶる良好。約1時間半でクララン(Kralanh)の町を通過し、さらに10分ほどで、右手に伸びる整備されたばかりのような直線道路に入った。未舗装ながら、コンバインを積んだ大型トラックが十分通行できるほどの道幅、道路脇にはカンボジアと日本の国旗の描かれた Trapaing Thmor Irrigation Site と書かれたプレートが掲げられていた(この一帯で、広域灌漑事業が実施されているのだ)。
 地平線まで広がる水田の中を貫く道路を進むこと約20分。水田のなかに島のように浮かぶ集落をいくつか通過し、再び集落に入る。道が突き当たったところに、ナーガの像の置かれたこじんまりしたロータリーがあった。右手に進むと賑やかな一角、ここがプノムスロックの中心部らしい。もっとひなびた村を想像していたのだが、そうでもない。
 商店が並ぶ一角を通り過ぎたあたりで車を停め、一軒の家に向かう。養蚕もやり、シルクとコットンの織りをしつつ、周辺の織り手からも布を預かり、シエムリアップの町に売りに行く仲買人のようなことをやっているという。家の裏手には10m×10mほどの桑畑があった。桑畑は他にもあるという。

 通常の織り機の幅の倍近い織り機もあった。これで幅広のコットンのブランケットを織っている。織り柄は「プノムスロック柄」という、菱形状の独特のものだ。コットンの糸は、プノンペンから先染めした糸を買っているという。
 続いて、すぐ近くのもう一軒の家に向かう。平べったい大ザルで蚕を飼っている。軒下には「まぶし」がぶら下がる。プノムスロックのまぶしは、カンポット州タコー村で森本さんが見たような葉のついたままの木の枝を梁から吊り下げるものではなく、葉を落した枯れ枝を束ねたかたちだ。
 そして3軒目。ここでIKTTのスタッフが、2つの大袋に詰められた黄色い繭を受け取る。ときおり「伝統の森」に、大量に届く黄色い繭の供給地は、ここプノムスロックだった。

 だが、この村の養蚕も曲がり角にきていた。現在、養蚕を行なっているのは、わずか17家族にまで減ってしまっているという。養蚕を止めて、タイへ出稼ぎに出る者が増えていた。クラランの町からタイ国境のポイペトまで約90キロ。状態のよくなった道路が、出稼ぎをさらに容易にした。内戦下でも養蚕が続けられ、その後、PASSというフランスのNGOの支援が入るなどしてきたこの村に、大きな変化が起きていた。
 町からちょっと離れたところに、大きな人造湖があった。ポル・ポト時代に作られた堤で水をせき止めたダムを改修したもののようで、この水源を活用して広域灌漑事業が進められている。ポル・ポト派の遺構で、後世の役に立っているものもあるのだ。
 ここプノムスロックは、森本さんが1996年のユネスコから委託された調査の際、州都シソポンから向かおうとしたときに「昨日、そこへの道で国連機関の車が手榴弾でふっ飛ばされた」と聞き、調査を断念したところである。
 その後、いくつかの縁が重なるなかで、プノムスロックの黄色い生糸はシエムリアップのIKTTへと届けられるようになった。そして今では、「伝統の森」に黄色い繭の状態で届くようになっている。
 生糸の生産地での状況の大きな変化は、今後のIKTTの活動、そしてカンボジアでの伝統織物の再興にどんな影響を与えるのだろうか。

2013-09-22

タケオ州の織りの村を訪ねる

 2013年の夏、カンポット州に続いてタケオ州の織物の村を訪ねた。
 朝8時半、プノンペンを出発し、国道2号線を南下する。最近のシェムリアップ周辺に作られた新しい道路を知る者としては「国道にしてはお粗末」という印象だ。が、あちこちで道路修復や拡幅工事が行なわれているので、近いうちに立派な国道に生まれ変わるはず。
 10時過ぎ、カンダール州からタケオ州バティ郡に入り、チャンバック(chambak)の集落を通過。まもなくサムラオン郡に入る。左手に見えてきた小さな山が、プノム・チソー(Phnom Chisor)だという。
 プノム・ダ・テンプル(Phnom Da Temple)の山門のところで国道を左折。プノム・チソーを目指して進む。「プノム・チソーへは3つのルートがある」とドライバー氏。確信をもってこのルートを選んだんだという口ぶりだ。車の窓から道の両側の家々をのぞき込むと、高床式家屋の床下には織り機に向かう人影が確認できる。なるほど、タケオの「織りの村」にやってきたという実感がわく。
 プノム・チソーの麓で、右手からの舗装道路に合流。これにはドライバー氏もびっくりした模様。
 森本さんと何度も訪れたかつての記憶をたどりながら、道路右側の、とある家を探すドライバー氏。その途中、2人乗りのバイクとすれ違った。後部荷台に乗っていた男の子が抱えているのは、括り終えた緯糸が掛かったままの括り枠。まさに絣織の村ならではの光景だ。
 ドライバー氏が、一軒の家にアタリをつけて車を停めた。そこは、かつて森本さんと仕事をしたことのある織り手の家だった。二階建ての家から出てきたのは、その家の旦那さん。森本さんと奥さんが写っている額入りの写真を見せてくれた。旦那さんも括りをするようで、バイヨンの尊顔、アンコール・ワット、ジャヤヴァルマン7世の像を括った作品が額装されて飾ってある。家の横手の作業場だったと思われるところには、使われなくなった織り機が3台残る。ドライバー氏によると「この家は、森本さんの指導を受けた後、人を集めて絣布を制作するようになった。もともとは粗末な家に住んでいたが、この家を建てるまでになった成功者なんだ」とのこと。
 その隣も、そのさらに隣の家も、絣布を織っている。織り機に掛かっていたのは、ピンク主体の孔雀の図柄。非常に絵画的だ。
 奥さんは、今は別のところで織っているとのことで、旦那さんが電話してくれ、そこへ移動することに。
 途中、サイワ・マーケット(1995年に森本さんがフィールドワークを行なったときのユネスコへの報告書によれば、ここが近在の生糸や絣布の集積地)を通過。当然ここにも寄るものと思っていたが、「見るところはない」とドライバー氏。しばらく進んだ先の、看板も出ていない家の入り口で、一人の女性が待っていてくれた。彼女が、先の写真に写っていた織り手その人。案内されたのは、作業中の織り機が3台並ぶ工房だった。彼女が織っているのは、花柄がモチーフの、金色に染められたスカーフサイズの絣布、日本からのオーダーなのだという。
 工房を辞して、舗装道路から脇道に入る。水田や木々の間に点在する家々。その多くの軒下には、織り機が見える。男性が織り機に向かっているのを見つけ、訪ねてみる。昼食間近なので奥さんが食事の準備をし、その間、旦那が織っていたのだという。誰もが織り機に向かう環境が、ここにはある。
 織り機の置かれた家々を左右に見ながら、集落をいくつか通り過ぎ、T字路を右折し左折し、水田の中の細い道をくねくねと1時間ほど進み、いいかげん道に迷ったかなという頃、ちょっと広い道に出た。なんとそこが、バティ郡のペイ村だった。
 じつは、舗装道路を左折してからの位置関係からすると、プレイカバスからチャンバックへ向かう道に出るのではないかと、地図をにらんで考えていたのだが、ドライバー氏に「ペイ村」とか「パイ村」と言ってもまったく判ろうとしない(発音は、パイでもペイでもなかったのがコトの真相らしい)。ちなみに地図は、プノンペンのモニヴォン通りにある国際書店で州別の詳細地図を入手できた。
 車を停めたドライバー氏が「ちょっと待て」と言って車を降りた。そのすぐ先の家が、なんと、IKTTの織りのチーフ、ソガエットさんの妹の家。その隣は、同じくIKTTのワンニーさんの実家。ソガエットさんの妹の家で織った絣布を見せてもらう。精緻な括り、打ち込みのしっかりした布目の揃った織り、さすが腕がいい。残念だったのは、はっきりしすぎるほどの青が基調だったこと。織りの産地ゆえに、自然染色で、というわけにはいかないのが現状であるらしい。

2013-09-13

ロシナンテス川原尚行氏「プロフェッショナル 仕事の流儀」に登場

 森本さんとも何かとご縁のあるNPO法人ロシナンテス代表の川原尚行医師が、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に登場します。
 以下、NHKオンラインの番組紹介から再掲します。

第211回 2013年9月16日(月) 放送予定
アフリカの大地、志で駆ける 医師・国際NGO代表・川原尚行
 長く内戦が続き、テロ支援国家として経済制裁を受けているアフリカ・スーダン。諸外国の援助が打ち切られる中、8年に渡り支援を続ける日本人がいる。国際NGO代表・川原尚行だ。その経歴は異色。外務省の医務官としてスーダンで働いていたが、地方の悲惨な医療の状況を見て、職を辞めることを決意する。ラグビー部だった高校時代の仲間や友人たちの協力で寄付金を集め、NGOを設立。以来、文化や宗教の垣根を越えて村に飛び込み、医療だけでなく、井戸や学校作りなどにも取り組んできた。「人をなおし、地域をなおす」。壮大な挑戦を続ける男の日々に、密着!


 なお、この再放送は、9月20日(木曜深夜)0時40分からの予定です。

2013-09-07

カンポット州タコー村を訪ねる

 2013年の夏、カンポット州のタコー村を訪れた。ここは、森本さんがユネスコのコンサルタントとして1995年に実施したフィールドワークのなかで出会った「つい最近まで養蚕をしていた」村であり、その後、ここでカンボジアの「伝統的養蚕」を再開させようと、森本さんが足しげく通った村である。
 プノンペンを出発し、国道3号線をひたすら南下。タケオ州アンク・タソム(Ank Tasaom)を過ぎ、2時間半ほどでトラム・カッ(Tram Kak)の市場に到着。この集落を通過したところで脇道に入る。
 17~18年前に、森本さんを乗せて何度もタコー村に通ったというドライバー氏は、「当時はこんなにまともな道はなかったよ」といいながら車を進めていく。が、さすがに当時とはずいぶん様子が変わっているようで、「お寺を4つ通り越した先だと確認してある」というものの、道沿いに山門があって本堂はずっと先の小高い丘の麓という寺もあり、それを含めるとすでに少なくとも5つは寺の前を通り過ぎているはず。すれ違うバイクに道を尋ね、携帯電話でどこかに確認しつつ、国道を離れてからほぼ1時間、ようやくタコー村に到着した。
 まず訪ねたのは、当時の養蚕グループのとりまとめ役だったポゥンさんの家。ポゥンさん自身はすでに亡くなられてしまったが、奥さんのオウ・モムさんにご挨拶。今も使っているらしい、糸引きの道具一式を出してくれていた。見上げれば、梁の上には、蚕を育てるときに使う大きなザルもある。
 家の周囲を眺めると、軒先には大きな水甕が並び、ヤシの木やパパイヤの木が育ち、バナナも茂っている。庭先には溜池もあった。家のすぐ裏手には、大きく育った1本の桑の木が残っていた。電気は来ているけれど、今も天水に頼る村の暮らしがうかがえる。ときおり雨のパラつく季節のせいか、緑も映え、想像していたよりも豊かな村という印象だ。

 次に訪れたのは、現在の「伝統の森」村長トウルさんの実家。オウ・モムさんの家からさほど離れているわけではないが、雨季になれば寸断されるであろう畦道のような道を進む。
 トウルさんの奥さんのお父さんも待っていてくれた。親族での記念写真(このプリントは後日トウルさんにお届けした)。ぼんやり庭先を眺めていると、そのすぐ先を牛たちが通り過ぎて行く。「伝統の森」のあるピアックスナエン周辺でも、よく牛を見かけるのだが、ここカンポット州では、牛の存在感がより大きいように思えた。

 当時を知るドライバー氏によれば、「モリモトがこの村に来たことで、養蚕が再開できて皆ハッピーだった。が、1997年の政変以降、モリモトが来なくなってからはこの村の養蚕も次第に廃れてしまった」とのこと。養蚕が村びとたちの経済的自立を助けると考えていた森本さんの思いと、村びとたちの思いには、いくぶんの齟齬があったのかもしれない。
 IKTTがシエムリアップに移転した翌年だったか、森本さんに「タコー村の養蚕は、その後どうなっているんですか?」と尋ねたことがある。そのとき、森本さんはこんなことを話してくれた。
「復活した養蚕の村ということで地元の新聞やテレビで紹介され、それを知ったいくつかのNGOなどが入りこんでいたので、あえて行かずにしばらく距離をおいていた時期があったんだ。僕の知らないところで、『森本からの紹介だ』と言って取材に入ったテレビクルーが、撮影のために至近距離で蚕にライトを当てて蚕が弱ってしまった、なんて話も聞いていたからね」
 養蚕復活の種は播いた。それをどう育てるかは、彼ら自身の問題だ、という森本さんなりの判断があったのかもしれない。
 ともあれ、2002年の秋には、森本さんは再びタコー村を訪れる。「伝統の森」再生計画を始めるにあたり協力してもらえないかと、村の長老たちに相談に行ったのだ。そして、それを受けてタコー村の若者たちがピアックスナエンまで開墾にやってきたことが、現在の「伝統の森」の第一歩となった。